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2016年1月6日水曜日

【研究ノート】 バーレーン、国の概要


簡単まとめ



・国名: バーレーン王国、通称バーレーン
…2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更
…ペルシア湾のバーレーン島を主島とし、大小33の島(ムハッラク島など)から成る島国
…首都はマナーマ
王家のハリーファ家は、クウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派
…1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる

・歴史
…16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出
…1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる
…1867年 カタール・バーレーン戦争
…1868年 イギリス・バーレーン合意
…1880年 イギリスの保護国となる
…1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるBahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油を発見
…1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ
…1971年 バーレーン国として独立
…1975年 議会廃止
…2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施
…2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行
…2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。

・地理
サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島
…サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋で結ばれている
…国土の大半が砂漠と石灰岩
…ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)

・国体: 立憲君主制
…2002年、立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改める
 (シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長が国王(マリク)に即位)
…二院制の議会を設置
 (国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)
…男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている
…かつては絶対君主制であり、「クウェートより危うい国」とされていた
…湾岸戦争以後、民主化を求める国民の暴動が絶えず、首長(アミール)の下で民主化実行

・外交
…隣国サウジアラビアの実質的な保護国
…サウジアラビアとは、王家が同じ部族出身ということもあって関係が深い
 (2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態収束)
…中東地域の国々や英、仏、日本、米を始め、多くの国と良好な関係
…親米国
…カタールとハワール諸島に関する領土問題あり
…イラクと関係が悪かった
 (湾岸戦争時にミサイルで狙われた)
大国イランとは、ペルシア湾を挟んで向かい合う
…イラン・パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる
…イラン・イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。
…2016年1月4日、イランと国交断絶
(2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけに、サウジアラビアとイランの関係は急速に悪化。さらにイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけに、1月3日、サウジアラビアはイランとの国交を断絶。これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶

・軍事
…湾岸戦争後、米と防衛協定を結ぶ
…米軍が駐留、第5艦隊の司令部がある
…南部の約25%が米軍基地

・経済
…2011年のGDPは約261億ドルと推計(IMF統計)
…日本の島根県よりやや小さい経済規模
…隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い
…GDPの約30%は石油関連事業による
 (中東で最も早く石油採掘を行った国)
…石油の恩恵で国民には所得税が皆無
…1970年ごろから石油が枯渇し始め、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面
…観光にも力を入れている
…通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール
 (2010年12月3日現在)

・国民
バーレーン国籍は46%(568,39人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)が外国人労働者
 (2010年調査)
…外国人労働者で最多はインド人で、290,000人超
住民はアラブ人が7割(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%など
…シーア派多数の人口構成を変えるため、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。

言語
…公用語はアラビア語、日常的にはバーレーン方言
…他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンズー語など
…英語も広く使われている

・宗教
…国教はイスラム教
…バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%
 (シーア派が75%、スンナ派が25%)
…外国籍を含むと、イスラームは70.2%、残りはキリスト教14%、ヒンズー教10%
…王家のハリーファ家は、クウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派
…1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる
…少数派のスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派のシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。

・宗教的規制
…サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやか
 (全世界からビジネスマンや観光客が来るためか)
…アルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めてムスリムが集まって盛り上がる
…女性も顔や姿を隠す必要はなく、Tシャツでも自由に過ごせる

・音楽
欧米の軽音楽の聴取が自由
…それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている

女性の社会進出
…政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでいる
…政府の要職に女性が就くことも珍しくない。
(アラブ女性連合最高評議会議長のサビーカ王妃、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など)
…就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準

スポーツ
…最も人気なのはサッカー
…F1誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催
 (西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設)





以下、添付資料

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wikipedia-バーレーン

 バーレーン王国、通称バーレーンは、中東・西アジアの国家。
 首都はマナーマ。ペルシア湾のバーレーン島(英語版)を主島として大小33の島(ムハッラク島など)から成る君主制の島国である。
 王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる。
 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって首長制から王制へ移行した。



国名

 公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。
 日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある。正則アラビア語に従った仮名表記では「バフライン」になる。
 国名のبحرينは[2]アラビア語で「二つの海」という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。





歴史

詳細は「バーレーンの歴史(英語版)」を参照

 かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明やシュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。

16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出
1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる
1867年 カタール・バーレーン戦争
1868年 イギリス・バーレーン合意
1880年 イギリスの保護国となる
1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(英語版)(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるen:Bahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油(en:First Oil Well, Bahrain)を発見。
1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ
1971年 バーレーン国として独立
1975年 議会廃止
1990年代 en:1990s uprising in Bahrain
2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施
2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行
2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。





地理

「バーレーンの都市の一覧」も参照

 サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。国土の大半が砂漠と石灰岩に覆われている。
ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)。
 サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。





政治

政体

 かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002年より政体を立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王(マリク)に即位した。
 二院制の議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている。



外交

 外交面では中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとハワール諸島に関しての領土問題がある。
 イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。
 またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。
 イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。
 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている[3]。
 隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。





軍事

詳細は「バーレーン国防軍」を参照

 軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、第5艦隊の司令部がある。南部の約25%がアメリカ軍基地となっている。





経済

 IMFの統計によると、2011年のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており[4]、日本の島根県よりやや小さい経済規模である[5]。
 隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。
 中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税が皆無であるが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、このままいくと、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面している。
 しかし、世界最大の産油国サウジアラビアの隣国であり同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。
 2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である[6]。
 観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。
 通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2010年12月3日現在)





国民

 2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%(568,39人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。
 住民はアラブ人が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。
 シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。



言語

 言語は公用語がアラビア語で、日常的にはバーレーン方言が話される。他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンズー語などが使われる。英語も広く使われている。



宗教

 宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%に達し国教となっている。そのうちシーア派が75%、スンナ派が25%となっている。外国籍を含むと、イスラームが70.2%にまで下がり、残りはキリスト教が14%、ヒンズー教が10%などとなっている。
 近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。
 少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。



宗教的規制

 全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。
 例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めてムスリムが集まって盛り上がる。また、女性も顔や姿を隠す必要はなく、Tシャツでも自由に過ごすことができる。





文化

音楽

 欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。



女性の社会進出

 女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る[7]。
 またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。



スポーツ

 スポーツで最も人気なのはサッカーであり、2006 FIFAワールドカップのアジア最終予選を抜けようと努力し、ホームのバーレーンのスタジアムではバーレーン国がチケットを買い上げ、それをバーレーンの市民に無料に配布してホームの試合を盛り上げるなどした。
 2002年に釜山で行われたアジア大会サッカー競技で当時のU-21日本代表と対戦して以来、バーレーン代表は抽選の都合日本代表との対戦機会が急増しており、国際Aマッチの範囲だけでも2002年から2010年にかけて9試合を交えている[8]。
 また西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設し、F1開催の誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催している。



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改訂履歴
なし

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